つくる人

日常生活を豊かにする "もの" を生み出す人たちとの
トークセッション。


Vol.19 鉢木利恵
( 「somewearclothing」 デザイナー ) 

巡り巡るものづくり

フリーランスのパタンナーとして様々なブランドの服づくりに関わった後、 2015年に自身のブランド「somewearclothing」 を立ち上げた鉢木利恵さん。
仕事、 子育て、 そして一人の女性としての社会との関わり。
変わらぬ洋服への思いと共に駆け抜けてきたこれまでの日々、 そしてこれからの話を伺いに、 埼玉・所沢のアトリエを訪ねました。

写真:川村恵理 聞き手・文・編集:落合真林子 (CLASKA)


CONTENTS

第1回/ "やりたい仕事" に出会うまで

第2回/それでも切れない洋服との縁

第3回/somewearclothing

第4回/洋服をつくることは、 社会と繋がること


Profile
鉢木利恵 (はちき・りえ)


「somewearclothing」 デザイナー。 短大卒業後、 「エスモード・ジャポン」 で学ぶ。 アパレルメーカーでのパタンナー・生産管理、 その後フリーランスのパタンナーを経て 2015 年に自身のブランドをスタート。 今年で9年目を迎える。 自身のブランド運営の他、 フリーのパタンナーとしても活動。 2児の母でもある。

Instagram@somewear.h


第1回
"やりたい仕事" に出会うまで

──とても素敵なアトリエですね。 ここはいつから借りてらっしゃるんですか?

鉢木利恵さん (以下、 敬称略):
4〜5年前ですね。 それまでは自宅内の自分の部屋で仕事をしていました。 やはり広さが必要なのと、 より仕事に集中できる空間があったらいいなと思い借りることにしたんです。

──ここ数年、 CLASKA Gallery & Shop "DO" の一部店舗で鉢木さんのブランド 「somewearclothing」 のフェアを開催させていただいていますが、 この春より CLASKA ONLINE SHOP でも商品の取り扱いをスタートさせて頂くことになりました。 改めて、 鉢木さんのものづくりについて色々とお話を伺っていけたらと思います。

鉢木:
よろしくお願いします。



英語と洋楽に夢中になった日々

──ご自宅はアトリエから近いそうですが、 生まれ育ったのもこの辺りですか?

鉢木:
いえ、 東京の下町育ちです。 荒川区の荒川遊園という街で生まれて、 小学校2年の時に練馬区の豊島園に引っ越しました。 それから短大を卒業するまではずっと実家に。 両親は精肉店を営んでいました。

──やはり、 幼い頃から洋服やおしゃれへの興味が?

鉢木:
それが全くなかったんです。 興味があったものといえば英語ですね。 3歳から高校を卒業するまでずっと同じ先生に教わっていました。

──3歳から! ご両親が教育熱心だったのですね。

鉢木:
父も母も本当に普通の人で、 特に高学歴というわけでもないんです。 その分、 子どもには英語が喋れるようになってほしいと思ったのかな。 もちろん英語自体もですが、 先生のことが大好きでした。 私よりも 15〜20 歳くらい年上の女性だったんですけど、 先生から受けた影響も結構あるなと思っています。


──先生はどんな方だったんですか。

鉢木:
今思えばなんですけど、 いわゆる "お嬢さま" だったんですよ。 授業の時に先生が話してくれる日常の話が、 どこか浮世離れしていて面白くて。 そうこうするうちに一緒に英語を習っていた 1 つ違いの姉が小学校高学年の時に洋楽にハマり出した影響で私も聴くようになり、 ますます英語が好きになりました。 TV 番組 「ベストヒット USA」 に登場していたような流行のアーティストも聞きましたが、 一番夢中になったのは THE POLICE です。

──小学生にしては早熟というか、 大人っぽい好みですね。

鉢木:
そうですよね (笑)。 私が小学校高学年の時にスティングがソロになったんですけど、 それからもずっと追いかけ続けて、 今でも大好きです。 そんな調子だったので、 洋服に興味を持ったり自分で選ぶようになったのは小学校高学年になってようやく、 という感じでした。

──どんなテイストの服を好んで着ていましたか?

鉢木:
基本的にシンプルで上品な感じの服が好きでした。 実は、 母よりも父に受けた影響の方が大きいんです。 通っていた高校が私服通学だったこともあり、 時々父のトレンチコートやステンカラーコートを着て登校していました。 中高生の時に愛読していた雑誌は 『mc Sister』 と 『Olive』 で、 好きだったブランドは 「DO! FAMILY」。 昔から服の好みは変わってないです。

──シンプルで上品。 アトリエの壁にオードリー・ヘップバーンの写真が飾ってあったのは、 そういうことなのですね。

鉢木:
そうそう。 オードリー・ヘップバーン、 好きなんですよ。

──高校卒業後は短期大学の英文科に進学されたそうですが、 長く英語を学んできた鉢木さんにとって自然な流れでしたか?

鉢木:
そうですね。 どこかで、 「私は英語をやっていくんだ」 「私には英語しかない」 と思い込んでいたところがある気がします。 小学生の時、 学校で将来の夢を書く時も 「通訳」 と書いていましたから。

──短大だと、 就職活動もすぐにはじまりますね。

鉢木:
英語をやっていくという気持ちで入学したものの、 いざ就職活動となった時に自分がどんな企業で働きたいのかを具体的にイメージすることができませんでした。 みんなはどうなんだろうと思って周りの同級生の様子を見てみると、 英語と関係なさそうな業種の会社を志望する人も多くて、 「え、 そういうものなの?」 と。 それこそ通訳を目指す選択肢もありましたし、 航空会社などを受けることも考えましたが、 自分はどこに向かっていくべきなのか迷ってしまったんです。


ギンガムチェックのブラウスをつくった日

──将来について迷い考える中で、 どのようなきっかけで洋服の世界を志すことになったのでしょうか。

鉢木:
迷いつつも一旦就職活動をはじめようかと考えていた頃、 ふと思い立って家にあった母のミシンで洋服をつくってみたことがあったんです。 細かい経緯はよく覚えていないのですが、 興味を持ったんでしょうね。 洋裁の本を見ながらやってみたら何とか完成して、 「あ、 つくれるんだ……!」 と。 その時ふと、 「洋服の世界に行ってみようかな」 と思ったんです。

──その時は何をつくったんですか?

鉢木:
水色のギンガムチェックのブラウスです。 本に 「襟に芯をはる」 と書いてあるのを読んでも意味がわからず、 試行錯誤した末にカチカチの襟になりましたけど (笑)。

──それにしてもかなりの急展開というか、 大きな方向転換ですよね。 「これを自分の仕事にしたい」 と思うのって、 結構大きなことというか……。

鉢木:
そうですよね。 自分でも少し冷静になる期間が必要だと思いましたし、 専門学校に通うお金も必要になるので卒業後に 1 年間アルバイト生活をすることにしました。 さすがに、 専門学校の学費を親に払ってもらうわけにもいかないので。 もし 1 年の間に考えが変わったら、 その時は自分の気持ちに従えばいいじゃないか、 と。


──1 年間のアルバイト生活を経て、 服飾専門学校 「エスモード・ジャポン」 に入学されました。 他にも学校の選択肢はあったかと思いますが、 エスモードを選んだ理由はなんでしたか?

鉢木:
エスモードは、 他の学校に比べて社会人になってから入学する人が多いと聞いたからです。 3年間でひと通り洋服の制作に関することを学ぶ 「総合科」 に入ったのですが、 とにかく早く卒業して仕事がしたいと思っていました。 変な話、 入学金と一年目の学費だけ貯めて入ったんですよ (笑)。

──そうでしたか (笑)。

鉢木:
2年目以降は奨学金を申請しようと考えていたのですが、 2年生に進級する前のタイミングで父が営んでいた精肉店に借金があることが発覚しまして。 そういう状況だと奨学金の保証人を父に務めてもらうのは不可能ということになり、 これはまずいぞ……! と。

──どうされたんですか?

鉢木:
本当に有難い話なのですが、 学校の事務に自分の現状を素直に相談したら学長につないでくださって、 学長が 「学費は、 卒業後に働きはじめてから毎月決まった額を返してくれればいいから」 とおっしゃってくださったんです。 とはいえ、 あと2年間もいさせていただくのは申し訳ないと思い、 本来であれば3年のところを2年で修了しました。

──その後、 アパレル会社に就職されました。 パタンナーとして入社されたそうですが、 デザイナーではなくパタンナーを志望した背景にはどういう思いがありましたか?

鉢木:
洋服の学校に行こうと思った時点で、 漠然と 「自分で考えた洋服をつくりたい」 という思いがあったのですが、 ひと通り洋服について学んで感じたのは 「パターンが引けないと、 良いデザインはできないんじゃないか?」 ということでした。 だからまずは、 パターンをしっかりやろうと。

──ファッションデザイナーという仕事は広く一般に認識されていると思うのですが、 パタンナーはデザイナーに比べて認知度が低いというか、 具体的にどういう仕事なのかわからない人が多いのではないかと思います。

鉢木:
そうかもしれませんね。

──改めて、 パタンナーとはどういう仕事なのか簡単にご説明頂いてもよろしいでしょうか?

鉢木:
デザイナーからデザイン画などの資料をいただいた後、 まずは大まかに型紙をつくります。 その後、 その型紙を元に 「トワル」 という、 いわゆる仮縫いのサンプルをつくりまして、 それを実際にボディに着せてみたりしながらデザイナーと一緒に丈や幅を調整して、 最終的に商品化する型紙を完成させる、 というのがパタンナーの仕事の一連の流れですね。

──洋服をつくる上での設計図ということですね。 やはり、 パターンがしっかりしていれば良い服ができるということでしょうか。

鉢木:
私は、 そう思っています。

──自分がやりたいと思っていた仕事に就いてみていかがでしたか?

鉢木:
もちろんやりがいはありましたが、 すごく大変だったというか……無我夢中でした。 専門学校で基礎知識は学んできたとはいえ、 最初は素人同然ですからね。 私はパタンナーをやりつつ途中から生産管理も担当させて頂いたのですが、 とにかく忙しかったなぁという記憶があります。

──鉢木さんが会社勤めをされていたのは平成がはじまって数年経った頃だったと思うのですが、 当時の服飾業界はどのようなムードだったのでしょう。

鉢木:
夜中まで会社に残って仕事をすることも多かったのですが、 残業が嫌というよりは、 終わらないからやらなきゃいけない、 という感覚でした。 他の会社がどうだったかはわからないのですが、 反応が良いものは量をつくってとにかく売って、 在庫が残ってしまったものは処分するというサイクルで。 そういう流れに関しても徐々に疑問を持つようになっていきました。

──洋服の世界に限らず、 限りある資源や素材を無駄にせずに必要な分だけつくろうという考え方が広く浸透しつつある現在とは、 だいぶ価値観が違いますね。

鉢木:
そうですね。 自分の心と身体が振りまわされるのが大変だったこともありますし、 何より関わっていただいている工場の方々も巻き込んでしまうのが申し訳なくて。 どうしても無理をお願いしなければならない場面も多かったので……。 可愛い服をつくってお客さんが喜んでくれたり服が売れるのはすごく嬉しいけれど、 その裏では悲しんでいる人がいるというギャップに辛さを感じるようになっていきました。

──その後、 入社して5年弱で会社を退社する決断をされました。

鉢木:
会社を辞める時、 アパレルからは一旦離れようと思ったんです。 ちょうど会社を辞めるかどうかのタイミングで実家の精肉店がいよいよ大変だという状況になってしまったので、 父を手伝いたい思いもあり、 会社には 「家庭の事情でやめます」 と半ば逃げるようなかたちで辞めてしまいました。

──その後のことについては、 何か具体的なことを考えていましたか?

鉢木:
いいえ。 会社を辞めた当時28歳だったのですが、 その先のことは何も考えていませんでした。

 

第2回へつづく

 


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