
TOKYO AND ME
東京で暮らす人、 東京を旅する人。
それぞれにとって極めて個人的な東京の風景を、 写真家・ホンマタカシが切り取る。
写真:ホンマタカシ 文・編集:落合真林子 (CLASKA)
Sounds of Tokyo 60. (Farmers Market @ UNU )
渋谷生まれ、 渋谷育ちです。
幼い頃の記憶はとても断片的なのですが、 いわゆる街の公園で遊ぶよりも 「青山学院大学」 のそばにあった 「こどもの城」 や、 「美竹公園」 の敷地内にかつてあった児童会館などに足を運ぶことが多かったように思います。
渋谷という街に対して意識を持ったのは、 自分ひとりで動ける範囲が広がった中高生になってからでした。
「いつもどこかに白い仮囲いがある」。 これが、 私にとっての渋谷の原風景です。
ひと昔前だと 「女子高生」 「ルーズソックス」 「センター街」 といったようなキーワードが、 ある種渋谷の象徴としてメディアで消費されたりしましたけど、 それは渋谷のひとつの側面に過ぎなくて。
当時自分がうろうろ歩きながら眺めていた渋谷は常にどこかが工事中で、 「ここに何かがあった気がするけど思い出せない」 ということが度々起こる寂しい街、 という印象でした。
つまり "故郷" として、 とても不安定なんですね。
街が絶えず流動して変化し続けているから、 普遍的な景色やいつ帰っても温かく迎えてくれるような "変わらない何か" が無いんです。
かつて渋谷は本の街で、 中高生時代は学校からの帰り道にパトロールと称して色々な本屋を一人でハシゴするのが習慣でした。
東急百貨店にあった 「ジュンク堂書店」、 南口にあった 「あおい書店」、 改装前の渋谷パルコの地下にあった 「パルコブックセンター」、 「文教堂」 に 「紀伊國屋書店」。 それから宮益坂を登りきったところにあった2軒の小さな古本屋。
最後はスクランブル交差点に建つ 「TSUTAYA」 の地下でディスカウントのCDをチェックして帰る、 というのがいつもの流れでした。
気がつけば、 渋谷の書店はほぼ壊滅状態になってしまいましたね。
この 「気がついたら、 こうなっていた」 という感じが、 年々加速している気がします。
ずっと何かをつくり続けているけれど、 100年先を見据えているわけではなくて、 ほんの2、3年先を見続けているような……。
街があまりにも早いスピードで流動しているから、 そこに思いをのせると街ごと消失してしまうんじゃないかと感じさせるような "もの悲しさ" が常にあって、 「もっと、 私と目を合わせてほしい」 と思ってしまう。
それは、 渋谷が私にとっての故郷だからかもしれませんが。
話は変わりますが、 並木橋の交差点のそばに 「渋谷区植物ふれあいセンター」 という施設があって、 子どもの頃からよく通っていました。
"日本一小さな植物園" と言われていて、 少々寂れた場所ではありましたが建物の中でぼーっと過ごすのが好きだったんです。
ところが先日、 雑誌の取材で久しぶりに足を運んでみたら、 キラキラの "映えスポット" としてリニューアルしていて驚きました。 自分の中でずっと公共空間だと思っていた場所が、 商業空間に変わってしまっていたんです。
例えば公園がなくなるというのは、 わかりやすい 「公共空間の消失」 だと思うんですけど、 お金を払わなくても人と人が集える場所がもっとあって欲しいですね。 故郷としてという思いもありますし、 ひとつの街としても。
私が渋谷を日常的に歩いていた10数年前までは、 まだ "謎の銅像" みたいなものが街中に存在していたり、 何をするわけでもなく植え込みや公園のベンチにぼんやりと座っている人が結構いた気がするんですよね。
私も、 その一人でした。 あの人達はどこへ行ってしまったのかな。
そういうことでいうと、 「国際連合大学」 前の広場はとても貴重です。 週末はファーマーズマーケットで賑わっていますが、 平日はしーんとしていて。
あのなんでもない空間が許されているっていうのは、 すごいことだと思います。 渋谷の最後の砦と言っていいかもしれません。
高校2年の時に出会った一冊の哲学書がきっかけとなり、 その後哲学の道へ進みました。
現在は日本各地の学校や企業、 その他さまざまな場所で、 ひとつのテーマについて参加者の皆で一緒に考えて対話をする 「哲学対話」 という活動をしています。
哲学対話とはつまり 「人と人はどうやって出会いなおせるか、 繋がりなおせるか」 ということを探る場でもあると思っているのですが、 私がこの活動をしているのは渋谷で長く実感してきた "寂しさ" や "ままならなさ" が、 少なからず関係している気がします。
──街で沢山の人とすれ違うけど、 誰一人として知らないし誰の顔も覚えていない。
──私たちは所詮バラバラで繋がれないし、 他者ってなんか怖いし、 話すのはめんどくさい。
そうではない人間との関わりはちゃんと存在するのに、 中高生の時にそれを忘れてしまいそうになったんですよね。
「それでいいのかな?」 という感覚が、 ずっと自分の中にあるのかもしれません。
今は別の街で暮らすようになり、 離れたところから渋谷を眺めることでより "問い" が強まった感覚があります。 故郷として愛着を持っているからこそ、 「これでいいのか? 渋谷」 と思ってしまう。
「私は心の底から渋谷が大好きです」 という人って、 実はあまりいないんじゃないでしょうか。
何かの中心地、 あるいはカルチャーの発信地として紹介されて、 いつも沢山の人で賑わっているけれど、 「とにかく人が多いし、 電車の乗り換えも大変だし、 実はそんなに好きじゃないんだよね……」 という人、 結構いそうですよね (笑)。
手放しで礼賛できなくて、 どこかしら問題がある。 このままでいいのかな? という問いが、 ぼんやりと漂っている……。 そういう感じが、 とても東京っぽい。
私にとって渋谷は、 「東京なるもの」 の一つの象徴でもあります。
Profile
永井玲衣 Rei Nagai
哲学者。 1991年、 東京都生まれ。 人びとと考えあい、 ききあう場を各地でひらく。 著書に 『水中の哲学者たち』 (晶文社)、 『世界の適切な保存』 (講談社)、 『さみしくてごめん』 (大和書房)。 第17回 「わたくし、つまりNobody賞」 受賞。 詩と植物園と念入りな散歩が好き。
Instagram: @nagainagai
東京と私