TOKYO AND ME

東京で暮らす人、 東京を旅する人。
それぞれにとって極めて個人的な東京の風景を、 写真家・ホンマタカシが切り取る。

写真:ホンマタカシ 文・編集:落合真林子 (CLASKA)


Vol.59 伊藤紺 (歌人) 

 

PLACE : 浜田山 (杉並区)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sounds of Tokyo 59. (Hamadayama station)


浜田山は人生ではじめて好きになった街です。
今の自分にとっての始まりの地と言える、 充実した高校3年間を過ごした場所。 高校が豊多摩じゃなかったら、 その後の私の人生は全然違うものになったんじゃないかな。

出身は東京の日野市で、 保育園に通っていた頃はみんなが外で遊んでいる時も一人室内に籠って折り紙をしているような子どもでした。
外遊びや周りに合わせることが苦手で、 小学生の間はあまり友達に馴染めず。 中学生になると親友や恋人ができたりして、 周りとの関係も割と楽しんでいたと思います。
部活は吹奏楽部に入ってその時なりの充実した日々を過ごしましたが、 学校そのものは大嫌いでした。

私が通っていた中学校は当時荒れていて、 状況改善のために、 同じ学校内にも関わらず私たちの代から厳しい校則が設けられていました。
その校則について理由を尋ねても 「ルールだから」 の一点張りで理由を教えてもらえず、 場合によっては別室に呼び出されて怒鳴られたり……みたいなことが度々あって、 大人への違和感や怒りが募っていきました。
もちろん楽しい時間もたくさんありましたが、 思春期で繊細な時期だったこともあり、 いつもひりひりとして、 怒っていましたね。
中3の夏に吹奏楽部最後の活動を終えた後、 「高校に行くのはやめよう」 と思いました。

自分の希望で中2から学習塾に通わせてもらっていたので、 親からしたらびっくりですよね。
母とは冷静な話し合いもしましたが、 結局泣かれたり怒られたりで 「高校に行かないなら働いて、 生活にかかるお金を全て一人で賄いなさい」 と言われました。
自分的にはそれでもいいと思ったんですけど、 親が今度は 「そんなこと絶対できない」 って言うんですよ (笑)。 すごく揉めたんですが、 結局高校へ進学する道を選ぶことに。

本腰を入れて高校を探しはじめたのが、 たしか12月だったかな……。 ぎりぎりのタイミングです。
「私服通学」 「校則が厳しくない」 等々、 自分の希望する条件に合う学校をいくつか探した中のひとつが、 浜田山に校舎がある 「都立豊多摩高校」 でした。

見学に行った他の学校は、 同じ私服通学でも派手でギラギラした感じで、 掲示物などからも青春や団結に重きを置いているような印象を受けたのですが、 豊多摩はすごく朗らかというか、 のびのびしていて。
服装も気合が入っていないし、 すれ違った時に挨拶してくれる先輩たちも元気に 「こんにちは!」 とかではなく、 会釈しながら 「どうも〜」 みたいな感じで。
「なんかいいな」 という直感めいたものがあり、 見学に行ってからすぐ豊多摩高校を受験すると決めました。
学校の雰囲気もそうですが、 浜田山という街そのものも良かったんですよね。
見学に行った日、 駅から学校までの道を歩きながら、 これまで自分が見てきた街とは何かがちょっと違うような感覚がありました。 "暮らし" が中心の街なので決して賑やかではないけれど、 静かすぎることもなく、 スーパーや花屋さんには活気があって……。 心地いい明るさを感じました。

ただ、 入学してしばらくの間は辛かったです。 どんなに自由に見えても、 やっぱり大人が子どもを理由や説明ではなく圧で管理する場所なんだな、 と思えてしまって。

1学期が終わる頃、 遅刻指導の対象になり、 1人呼び出されて学年の先生7人に囲まれて口々に叱られました。
完全に自分が悪いのですが、 とはいえ遅刻したくてしているわけではなので、 そのやり方もどうなんだろうっていう。

今思えば、 とても忙しい先生たちが指導のために全員で時間を割いてくれたわけなのですが、 当時は大人は敵に見えてしまっていたので、 見え見えの嘘の言い訳をしました。
間髪入れず 「嘘つくな!」 と怒られている中、 一番怖い体育の先生が、 突然 「わかった。 信じるよ」 って言ってくれたんです。
こちらの言うことを、 しかも見え見えの嘘を 「信じる」 と言ってくれたことがはじめてだったので、 まずはそのことに驚きました。
そして漠然と 「もしかしたら、 自分が思っているのとは違う種類の大人がいるのかもしれない」 と思ったんです。 入学してから半年が過ぎた頃のことでした。

その日を境に信用できる先生が段々と増えていき、 先生たちへの信頼が学校を好きになる一つのきっかけになりました。
あとは、 軽音楽部が楽しかったですね。
クラスではちょっと浮いているような一風変わった子たちの集まりだったのですが、 自分のやりたいことや好きなことを突き詰めている子たちばかりで。 その子たちとたくさんの時間を過ごせたことは、 後々の人間関係にも影響していると思います。
学生の時って、 「洋服の好みが似てる」 「ノリが似てる」 みたいなことを軸に友達を選ぶところがあるじゃないですか。
私もずっとそうだったのですが、 そこに起因しない、 また単なる部活の同期ってだけでもない、 新しい友達の在り方だったんですよね。 何かを一緒にがんばってるわけでもないし、 服装や好みもバラバラだけど、 集まると楽しくて。

放課後はだいたい17〜18時くらいまで部室でしゃべって、 帰りは駅までの道の途中にあったジョナサンに行ったり、 「善福寺川緑地公園」 や 「柏の宮公園」 に行ってお菓子を食べながらまたしゃべったり。
思い出の場所はたくさんありますが、 浜田山の風景として最初に思い浮かぶのは、 やはり駅前や学校へ向かう通学路ですね。
学校に行く途中にコンビニと西友があって、 安いからみんなよく西友に行くんです。 西友で切り餅やパンを買って、 音楽準備室に誰かが持ち込んだトースターで焼いたりもしていました。

─「つきたくないうそはつかなくていいとか普通のことをきみから学ぶ」
(第 3 歌集 『気がする朝』 より)

すっかり忘れていましたが、 高校時代の出来事が元になっている歌がありました。

まだ幼かった1年生の時、 友人と一緒に授業を抜けて喫茶店に行ったのが学校にバレたことがあって。 見つかっちゃった時のために口裏を合わせておいたのに、 友達が正直に全部話してしまいました。
その時は 「勘弁してよ」 って思ったんです。 「なんで正直に言っちゃうの」 みたいに聞いたら、 「嘘はつけない」 って真剣に言われたんですよね。

はじめは 「変なの!」 と思いました。 当時の自分は幼かったから、 嘘でうまく渡っていけばいいと思っていたけど、 その子は先生に怒られたとしても、 私に責められたとしても、 自分の信念を守った。
一人の人間がそういう信念を自由に持ってていいんだという発見が、 何年もかけてゆっくりと自分の中に根を下ろしたように思います。

大学卒業後に一度新卒で会社に入りましたが、 理不尽なことで怒鳴られて 「怒鳴るのは、おかしいよなあ」 と、 わりとすぐ辞めました。 迷惑をかけて申し訳ないけれど、 そうじゃない価値観で生きてきたので曲げられないなって。

小さなレベルであっても個人の信念や尊厳を傷つけるような行為をうまく消化することができないし、 できなくていいと思っています。
作品にはきっとそういう背景も現れていくんでしょうね。


Profile
伊藤 紺 Kon Ito


歌人。 1993年生まれ。 歌集に 『気がする朝』 (ナナロク社)、 『肌に流れる透明な気持ち』、 『満ちる腕』 (ともに短歌研究社)。 "リレー" のように交互に作品を制作する、 デザイナー・脇田あすかとの展示作品 「Relay」、 土地を歩き土地に短歌を書き下ろした 「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2024」 への出展、 写真作品に短歌を書き下ろした上白石萌歌の写真展 「かぜとわたしはうつろう」 のほか、 ファッションビルとのコラボレーションなど活躍の場を広げる。

Instagram@itokonda

東京と私